沙石集~だぶだぶ~(2)


昨日の続きで、金儲けのために、理を曲げて説教をする法師のお話しです。

昨日は、琵琶湖で漁をする漁師のために、

「琵琶湖は延暦寺の御本尊である藥師仏の眼。だからお前さんがたは仏様の眼のゴミを取っていることになる。
これは大変な功徳で、きっとお前さん方の来世は救われるであろう」

というような話をして喜ばせ、お布施をしこたま稼いだのでしたね。

今回はもっとこじつけが酷いです。


【現代語訳】
また、北陸の海辺でも、漁師が集まって堂を建てて供養したが、まったく導師の説教は漁師の望むものと違った。
ある僧が、漁師の心を知って、供養して言ったことは、
「この信者の皆々様はかならず極楽往生なさるはずだ。なぜなら、念仏は必ず極楽往生を遂げる行為である。
しかも、絶えず唱えようものなら、少しも極楽往生することに疑いのあるはずもない。
しかし、あなた方は自然と絶えず念仏を唱え申し上げていらっしゃるのだ。
朝夕、各自が網を持って『網、網』とおっしゃると、波は『だぶ、だぶ』と音を立てる時に、
いつも『あみだぶ、あみだぶ』と申し上げていらっしゃるのだから、これは立派なことだ」と言うと、
喜んで、全財産を投じて、この僧にお布施を与えた。
これは、臨機応変な弁ではあるが、仏法の道理にはかなっていない。
人を救う心なくして、布施を望んでこのようなことをするならば、間違った説法である。
もし、正しく導くために聴聞者に心を寄せて、次第に言いくるめて、
現世の罪を滅し、来世に善を呼ぶ仏道の道に導くための方便ならば、筋の通らない説法も、罪はないだろう。


【原文】
また、北国の海辺にも、海人寄り合ひて、堂を立て、供養するに、おほかた導師心に叶はず。
ある僧、心を知りて、供養しけるは、
「この檀那、必ず往生し給ふべし。その故は、念仏は決定往生の業なり。
しかも、不断申すに於いては、すこしも往生に疑ひあるべからず。
然るに、諸施主は、おのづから不断の念仏を申し給ふなり。
朝な夕な、面々に網持ちて『あみ、あみ』と宣へば、波は『だぶ、だぶ』と鳴る時に、
いつも、『あみだぶ、あみだぶ』と申し給ふこそ、ありがたけれ」といへば、
悦びて、一期の財産を投げて、布施しけり。
これは機に叶ひてあれども、法の道理に叶はず。
利益の心なくて、布施を望みてせば、邪見の説法なり。
もし、菩薩同時の行に心を存じて、漸くこしらへて、
滅罪生善の道に入れしむる方便ならば、あま逆さまのことも、とがあるべからず。


当時、漁師というのは富裕層だったそうです。

ここは一発、相手の気に入る説教をすれば儲かるぜ!と思ったんでしょうか。

しかし「菩薩同時(ぼさつどうじ)」とか「滅罪生善(めつざいしょうぜん)」とか言われると、ゲッて思いますよね。

でもまあ、その前のエピソードは面白いじゃないですか。

網!→だぶ 網!→だぶ はい、極楽往生できますよ、ってそんなわけあるかい! ってね。

 

沙石集~だぶだぶ~(1)

 

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