徒然草~賀茂の競馬~


【無常観】というものがあります。仏教的なものの考え方です。

・この世に永遠不滅なものなどないということ。
・特に、「人はいつか必ず死ぬ」「人の死はいつ訪れてもおかしくない」ということ。

だから何なのか、というと、「だから仏門に入ろーぜ!」ってことなのです。

出家して仏門に入る、ということは「死の準備」を始めたことになるといっても過言ではありません。

仏門に入って仏道修行に励み、善行を積んで、来世で「極楽浄土」に生まれ変わることを目指します。

極楽浄土は仏様の住む世界で、何の苦しみもありません。何よりもまず死というものが存在しません。

人間、生きているとつらいこともありますよね。

古文の世界では、そのつらさに耐えられなくなると仏門に入る、という物語の展開が多く存在します。

授業ではよく「絶望→出家」という風に教えています。

今回はそんな無常観をテーマにしたお話です。


【現代語訳】
五月五日、賀茂神社の競べ馬を見たのですが、牛車の前に民衆が大勢立ちはだかって見えなかったので、
皆それぞれ牛車を降りて、柵のそばに寄ったけれど、
その辺りは特に人が多く混み合って、分け入ることなどできそうにもない。
このような時に、向かい側の栴檀の木に登って木の股に腰掛けて見物する法師がいる。
木につかまりながらひどく眠り込んで、落ちそうになる時に目を覚ますことが度々である。
これを見る人は、嘲笑して軽蔑して、
「大変なバカ者だなあ。このように危険な枝の上で、油断して眠っているのだろうよ」と言うので、
自分の心にふと思ったまま、
「我々の死の訪れというものは、今すぐであるかもしれない。そのことを忘れて、見物して日を暮らす。
愚かなことは、こちらの方が上を行っているのに」と言ったところ、
前にいる人々が、「本当にそうですなあ。いかにも愚かでございます」と言って、
みな後ろを振り返って、「ここへお入りください」と言って、場所をどいて私を呼び入れました。
この程度の道理は、誰もが気づくことであるけれども、
ちょうど折も折の、思いがけない心地がして、思い当たったのだろうか。
人は、木や石ではないので、時に応じて、物事に感動することがないわけでもない。


『徒然草』の第41段です。

筆者の体験談を語った章段です。

最初に書いた【無常観】は、筆者自身が独り言のように言ったとされるセリフに顕著です。

「我々の死の訪れは今すぐであるかもしれない」というやつですね。

ただ、人に場所を譲られて結局筆者自身も競べ馬を見物しているというのが何とも。

筆者である兼好法師は30歳前後で出家したと言われています。

対して、この文の最初の方では「牛車から降りて」とあります。

牛車で競べ馬を見物に来る、というのは貴族的ですよね。

だから少なくとも出家する前の出来事であろう、というのは分かります。

筆者が13歳ごろのことを回想して書いているのだろう、という説もあるほどです。

また、人々が場所を譲ってくれたのは、本当に兼好の言葉に感銘を受けたからなのでしょうか。

振り返ったら宮中に勤める官人がいたからどいただけなのではないかと思うのですが。

考えすぎかしら。

では最後に原文と語釈です。


【原文】
五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、車の前に雑人立ちへだてて見えざりしかば、
おのおのおりて、埒の際に寄りたれど、
ことに人おほく立ちこみて、分け入りぬべきやうもなし。
かかるをりに、向ひなる楝の木に、法師の、登りて木の股についゐて物見るあり。
とりつきながら、いたうねぶりて、落ちぬべき時に目をさます事たびたびなり。
これを見る人、あざけりあさみて、
「世のしれものかな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありてねぶるらんよ」と言ふに、
わが心にふと思ひしままに、
「われらが生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて物見て日を暮らす。
愚かなる事は、なほまさりたるものを」と言ひたれば、
前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。最も愚かに候ふ」と言ひて、
みなうしろを見かへりて、「ここへ入らせ給へ」とて、所をさりて、よび入れ侍りにき。
かほどのことわり、誰かは思ひよらざらんなれども、
をりからの思ひかけぬ心ちして、胸にあたりけるにや。
人木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。


【語釈】
◯「賀茂の競馬」読み:かものくらべうま
上賀茂神社で行われた行事。5月5日に行われる。堀河天皇の御代(平安後期)に始まった。

◯「雑人」読み:ぞうにん
庶民。大衆。一般人。

◯「埒」読み:らち
馬場を囲む柵。

◯「楝」読み:おうち
栴檀(センダン)の木。

◯「法師の、登りて木の股についゐて物見るあり」
「法師」の「の」は同格の用法。「法師で、登って木の股に腰掛けて見物する法師がいる」というのがガチガチの直訳。

◯「世のしれものかな」
「世の」は「たぐいまれな」とか「大変な」などの意味。「しれもの」は「バカ者」の意味。

◯「安き心ありてねぶるらんよ」
助動詞「らん」は、①現在推量②現在の原因推量③現在の伝聞婉曲、という用法を持つ。これを②原因推量でとり、「どうして~ているのだろう」の意味で取る説もある。すると、詠嘆もしくは断定的な意味の間投助詞「よ」に違和感が出る。無理にそんな解釈をしなくても現在推量で取れば良いと思う。

◯「ことわり」
スーパー重要語で「道理」の意味。形容動詞「ことわりなり」は「道理だ、当然だ、もっともだ」などの意味。

 

Posted in 古文

コメントは受け付けていません。