大鏡~菅原道真~(8)


~前回までのあらすじ~
1)醍醐天皇の御代、左大臣時平と右大臣道真が国政を取り仕切っていたが、道真の方が学問があり帝からの信も厚かった。内心面白くない時平だったが、ちょうど道真に不都合なことが起こり、道真は左遷され、大宰府に流されるのだった。

2)道真には多くの子がいたが、それぞれ別々の地へと流されることになった。あまりにも幼い子は道真に同行することを許されたが、道真は無実の罪を嘆いて和歌を詠み、ついには出家して大宰府へと下っていくのだった。

3)詩や歌を詠みながら大宰府に到着し、いつか都に呼び戻されることを密かに期待し、何かにつけて和歌を口ずさむ道真だった。

4)淀みなく話を続ける世継じいさんに、話を聞く者たちはすっかり引き込まれていた。そこで世継じいさんはますます気をよくして話し続けるのだった。

5)気をよくした世継じいさんは、大宰府で謹慎する道真が詠んだ漢詩を披露するのだった。

6)世継じいさんが道真の詩歌に詳しくなったいきさつを話すと、聴衆はしきりに感心した。

7)大宰府の地で道真は死んでしまった。京では北野天満宮に、筑紫では安楽寺に、道真は神として祀られた。また、道真の死後、内裏が火事で焼失してしまった。内裏を造営していたある日、屋根の裏板に道真の怨霊のしわざと思われる和歌が刻まれていた。

前回、唐突に道真は死んでしまいました。

道真が大宰府にいたのは、3年ほどだったそうです。

ちなみに、円融天皇(在位:969~984)の時に内裏が火災に見舞われた、という話がありましたが、

円融天皇の時代には二度、内裏が焼失しています。

一度目は976年、二度目は980年だそうです。

道真が亡くなったのは903年ですから、祟りだとすると凄まじいですね。

今回は、道真の死後、さほど時を経ずしての宮中の異変から語りが始まります。


【現代語訳】

そうしてその後七年ほどあって、左大臣時平公が、延喜九年四月四日にお亡くなりになった。

御年は三十九歳だった。大臣の位に十一年お就きになっていた。本院大臣と申した。

この時平公のご息女である、宇多院の女御だった方もお亡くなりになり、

御孫の皇太子も、長男の八條大将保忠卿もお亡くなりになってしまったよ。

この保忠卿は八条に住んでいらしたので、内裏に参上なさる道のりはとても遠かったが、

どうお思いになったのだろうか、

冬はとても大きな餅を一つと、小さいのを二つ焼いて、温石のようにお体にあててお持ちになっていたが、

ぬるくなると、小さいのを一つずつ、大きいのは半分に割って、御車の供の者に投げ与えなさった。

十分すぎるほどのお心配りであるよ。

その時分にも人々の耳にとまって思うところがあったから、このように言い伝えているようだ。

この殿だよ、病気になってあれこれ祈祷をなさり、「薬師経」の読経を枕元でさせなさる時に、

「所謂宮毘羅大将(いわゆる、くびらだいしょう)」と声を張り上げたのを、

「私の首を絞めて殺す、と読むのだなあ」とお思いになった。

びくびく怯えつつそのまま気を失ってしまったので、

経の文言とはいいながらも、恐ろしい物の怪に取り憑かれなさった人に対して、実に奇妙に声を張り上げたことですよ。

そうなる運命だったとはいいながらも、ものごとにはその時々によって言葉の持つ不思議な力というのもあることです。


道真を失脚させることに成功した時平でしたが、道真の祟りのせいか、39歳の若さで亡くなってしまいましたとさ。

他、時平の一族は短命な人が多かった、と語られます。

この語りだと立て続けに亡くなったように見えますが、実はそうでもありません。

時平が亡くなったのは道真の死から7年ほど後、とありますが、具体的には909年のことです。

時平の娘で宇多院の女御、というのは藤原褒子(ふじわらのほうし/よしこ)という方ですが、

この方の生没年は分かっていません。

しかし、931年に落飾(出家)と記録があるそうで、おそらくその後しばらくして亡くなったものと思います。

時平の孫で皇太子、というのは慶頼王(よしよりおう/やすよりおう)という方です。

3歳で皇太子になった慶頼王は、その2年後にわずか5歳で亡くなってしまいました。これが925年。

最後に、時平の長男・藤原保忠ですが、この方が亡くなったのは936年のことです。

整理すると、

903年   菅原道真 没
907年   藤原時平 没
925年   慶頼王   没
931年ごろ  藤原褒子 没
936年   藤原保忠 没

ということになります。

ちなみに、百人一首に、

わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ

という歌があります。

元良親王(陽成天皇の第一皇子)が詠んだ歌です。

歌意は、「あなたとの関係が噂となってしまった今となっては、もうどうあっても同じことです。あなたを思うと私はつらく切ないので、難波の海には《澪つくし》が立っていますが、この《身を尽くし》、滅ぶことになってもあなたに逢いたいのです」といったものです。

この歌を送った相手というのが、藤原褒子です。

では最後に原文を。


【原文】
さて後七年ばかりありて、左大臣時平のおとど、延喜九年四月四日うせ給ふ。
御歳三十九。大臣の位にて十一年ぞおはしける。本院大臣と申す。
この時平のおとどの御女の女御もうせ給ひ、
御孫の春宮も、一男八條大将保忠卿もうせ給ひにきかし。
この大将、八条に住み給へば、内裏に参り給ふほどいとはるかなるに、
いかが思されけん、
冬はもちゐのいと大きなるをば一つ、小さきをば二つ焼きて、焼き石のやうに御身にあてて持ち給へりけるに、
ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをばなかより割りて、御車ぞひに投げ取らせ給ひける。
あまりなる御用意なりかし。
その世にも耳とどまりて人の思ひければこそ、かく言ひ伝へためれ。
この殿ぞかし、病づきて、さまざま祈りし給ひ、『薬師経』読経、枕上にてせさせ給ふに、
「所謂宮毘羅大将」とうちあげたるを、
「我をくびると読むなりけり」と思しけり。
臆病にやがて絶え入り給へば、経の文といふ中にも、こはき物の怪にとりこめられ給へる人に、
げにあやしくはうちあげて侍りかし。
さるべきとは言ひながら、ものは折節の言霊も侍ることなり。


【語釈】
◯「焼き石」
温石(おんじゃく)。石を火で温め、布でくるんでカイロのように使う。

◯「宮毘羅大将」読み:くびらだいしょう
金比羅(こんぴら)さまのこと。ここでは八條大将保忠が「くびら」を「くびる(首を絞めて殺す)」と聞き、自分の位が大将なので「自分の首を絞めて殺す」ということだと誤認した、という。

 

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