源氏物語~桐壺~


どの帝の御治世だったでしょうか、女御の方や更衣の方がたくさんおいでになったなかに、最高のお家柄というわけでもなく、帝のご寵愛を独り占めになさる方がいらっしゃいました。もともと、自分こそはと思っていらした誇り高い女御の方々は、この方を気に入らない者として、さげすんだ目を向けていらっしゃいました。
また、その方と同じか、あるいは低い地位の更衣たちはいっそう穏やかならぬ心境だったのでした。その更衣の方は、朝晩の宮仕えにつけても人の心を動揺させ、恨みを負うことが積み重なったせいでしょうか、ひどく病弱になっていき、心細い様子で自邸に退きがちなのを、帝はますますもの足りなく愛しいものとお思いになり、人々の非難も気になさる余裕はおありでなく、後の世の語り草にもなりそうなほどのご寵愛ぶりでした。
上達部や殿上人の方々も、苦々しい気持ちで目をそらしては、
「とても目を覆うばかりのご寵愛だ。唐でもこんなことから世が乱れて悪くなったことよ」
と、だんだんと世の中でも不条理なこととして人々の悩みの種となり、楊貴妃の例まで引き合いに出されるようになっていって、この更衣の方としてはいたたまれないことばかりなのですが、おそれ多い帝のご愛情が比類ないことを心の支えとして宮中に暮らしていたのでした。
この更衣の方は父の大納言が既に亡くなっていたものの、その正妻だった母君は由緒正しい古風な方として健在で、両親が揃っていて今現在世の評判が華々しい御方々にも負けず劣らず、どんな儀式も執り行いなさったのですが、それでも、これというしっかりとした後ろ盾がないものですから、何かある時には、やはり頼るところがなく心細そうでございました。[

前世からの深い御縁があったのでしょうか、この更衣の方に、世にまたとなく美しい、光り輝くような男御子までお生まれになりました。帝は、この御子を早くこの手に抱きたい、とじれったくお思いになって、急いで参内させて御覧になると、それはそれは思いも寄らないほど美しいお顔立ちの御子だったのでした。
一方、第一皇子の母君は右大臣家の女御でしたので、後ろ盾も盤石で、間違いなく皇太子になられる君である、と世の人も丁重にお仕え申し上げていましたが、この御子のお美しさにはとても及ばなかったものですから、帝も、第一皇子を大切になさるとは言っても並一通りでございまして、この新たな若君に目いっぱいの愛情をそそぎなさり、この上なく大切に御養育なさるのでした。
母君である更衣の方は、まるで常に帝の側仕えをする女房のようでしたが、最初からこうだったわけではございません。世の評判も格別で、高貴な方らしく振る舞ってはいたのですが、帝が無理にお側近くに置きたがるあまり、しかるべき御宴の折々など、何につけても、風情ある催しの時にはまっさきにこの更衣の方をお召しになり、またある時には、寝過ごしなさると更衣の方を御殿にも帰さずそのままご一緒にいなさるなど、強引にお側を離さずにお扱いなさっていたので、この更衣の方はどうしても軽い身分のように見えたりもしたのですが、この御子がお生まれになってからは、帝もこれまでとは違ってこの更衣の方を重々しくお取り扱いになったものですから、
「へたをすると皇太子の座もこの御子に奪われてしまいかねないわ」
と、第一皇子の母女御は疑っていらっしゃいました。
この女御の方は誰よりも早く帝に嫁ぎなさった方でして、帝の特別なお気持ちも並大抵ではなく、また御子もいらっしゃっいましたので、帝としましてもこの女御の方のご忠告ばかりは無視もできず、とは言え、やはり鬱陶しく、心苦しく思い申し上げていらっしゃいました。
更衣の方は、帝の畏れ多い庇護を頼りにし申し上げていましたが、この方をさげすみ、どこかに評判を落とすような欠点はないものかと探し求めなさる人も多く、更衣の方自身はか弱く頼りない様子で、なまじ帝の寵愛を得たばっかりに、かえって物思いに沈んでいらしたのです。[

この更衣の方がお住まいになっている殿舎は桐壺でございました。帝が、数々のお后様のお部屋の前をひっきりなしに素通りなさるものですから、后の方々がやきもきなさるのも本当にもっともなことと見受けられました。桐壺様が帝のもとに参上なさる場合にも、あまりに頻繁だと、殿舎をつなぐ橋や渡り廊下のあちこちに、ひどい嫌がらせを仕掛けて、御送り迎えの人の着物の裾が耐え難いほどに汚れるなど、とんでもないことが度々あったのです。またある時には、どうしても避けて通れない馬道と呼ばれる廊下の両端の扉に鍵を掛けて閉じ込めてしまったり、后の方々は共謀して桐壺様を困らせ、途方に暮れさせてしまいなさることも多くございました。
何かにつけて、数え切れないほど苦しいことばかりが増えていくので、とてもひどく思い悩んでいるのを、帝はますます気の毒なことと御覧になって、もともと後涼殿を賜っていらした別の更衣の方のお部屋を他へお移しになって、桐壺様の控えの間としてお与えになったのでした。その居所を移された更衣の方の恨みはまして晴らしようもないほどだったのも当然のことでした。
ところで、この桐壺様がお生みあそばした御子が三歳におなりになる年の御袴着の儀式の際には、第一皇子がお召しになった御装束にも劣らず、内蔵寮や納殿にしまわれている豪奢な装束や装飾品を惜しみなく持ち出して絢爛豪華に着飾らせなさいました。そのことに関しましても、世間は非難囂々でしたが、この御子の大人びたお顔立ちや気立ての程は世にも珍しいほどにお見えになるものですから、お憎みになることはできないのでした。
物の道理がお分かりになる人は、こんな人がこの世においであそばすものなのだなあと、呆然として目を丸くするばかりでいらっしゃいました。[

その年の夏、桐壺様はご病気を患って里下がりをなさろうとしたのですが、帝は内裏を離れることをお許しになりませんでした。この数年、桐壺様はいつも病気がちでいらしたので、帝も見慣れておしまいになって、
「やはり、このまましばらく様子をみなさい」
とおっしゃるのですが、日に日に病は重くおなりになって、たった五六日のあいだに、非常に弱々しくなったものですから、桐壺様の母君が泣きながら帝に訴え申し上げて、桐壺様を退出させ申し上げなさることにしました。
このような時でさえも、桐壺様は、他のお后たちの陰謀であるまじき恥をかかせてはいけないと、御子は内裏にお残しして、ひっそりと出てお行きになるのです。病が重い人は内裏を去るきまりがあるので、帝も桐壺様を引き止めてばかりいらっしゃるわけにもいかず、と言って、お立場上お見送りさえできないじれったさを、言いようもないほどもどかしくお思いになるのでした。たいそう輝くばかりに美しくかわいらしい桐壺様が、ひどくやつれて、深い哀しみを胸に染み込ませながら、言葉にして申し上げることもできず、今にも命の灯が消えてしまいそうになりながら横たわっていらっしゃるのを御覧になると、帝は後先をお考えになることなどおできにならず、色々なことを泣きながら約束しておっしゃるのですが、桐壺様はお返事も申し上げなさることができず、とてもだるそうな眼差しで、いっそう頼りなく意識もはっきりしない様子で床に伏しているので、どうしたらよいものかと帝は困惑して途方に暮れなさってしまいました。
帝は桐壺様が輦車にお乗りになることを許可する宣旨をお出しにはなったものの、こうしてお部屋にお入りになって愛しい桐壺様を御覧になると、どうしても内裏を去ることをお許しになることができないのでした。[

帝が、
「あの世へ旅立つのも一緒に、とお約束なさったのだから、いくら何でも私を捨てて行くことはできないはずだよ」
とおっしゃると、桐壺様も、非常に悲しい気持ちで帝を見つめ申し上げて、
かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
〔これを限りと上様とお別れするあの世への道は悲しくて私も行きたくはありません。この命を生きていとうございます〕
本当にこんなことになると思っておりましたならば…」
と息も絶え絶えに、申し上げたそうなことがあるようなのですが、とても苦しそうでだるそうなので、このまま、例えどんな結果になろうとも最後までお見届けなさろう、と帝はお思いになるのですが、使いの者が来て、
「今日始めることになっている祈祷を、しかるべき僧侶たちがお引き受けしておりますので、さっそく今夜から」
と申し上げ、桐壺様の里下がりを急かすものですから、帝は非情なことをとお思いになりながらも、とうとう桐壺様を退出させなさいました。帝は桐壺様のことを思うと御胸が塞がるばかりで、一睡も出来ず、夜を明かすのも難儀していらっしゃるかのようでした。
そのような中、桐壺様のお屋敷で
「夜半を過ぎるころに息を引き取りなさいました」
といって泣き騒ぐので、帝の使いも、がっくりと落胆して内裏にお帰りになるより他ありませんでした。その報をお聞きになる帝のお心の乱れといったら、もはや何も考えることがおできにならず、ただもうお籠もりあそばすばかりなのでございました。[

帝はこんな状況でも御子のことを御覧になりたいというお気持ちが強いのですが、このような時に内裏に仕えなさるというのは前例のないことなので、間もなく退出なさることになりました。御子は何があったのかさえもお分かりになっておらず、お仕えする人々が動揺して泣き、 父帝までもが御涙をずっと流していらっしゃるのを、何だろうと不思議に思いながら拝見していらっしゃるのでした。
しきたりにのっとって桐壺様をお弔い申し上げるのを、御母上は
「私もいっしょに煙になりたい・・・」
と、泣きながら思い焦がれなさり、御葬送に向かう女房の車に同乗なさって、たいそう荘厳に葬儀を執り行っている愛宕という所に到着なさった時の御胸の内は、どれほど悲痛なものだったことでしょう。
御母上は、蘇ることのない桐壺様の御亡骸を見ながら、
「それでもやはり生きていらっしゃると思いこもうとしても空しいばかりなので、灰になってしまわれたのを見申し上げることで、もう亡くなってしまったのだと無理にでも思い切るのです」
と、理屈めいたことをおっしゃったのですが、狼狽のあまり車から落ちそうにおなりになったものですから、
「やっぱり・・・」
と女房たちはお扱いに少々困っているようでした。
そこへ内裏から御使者があって、亡き桐壺様に三位を追贈なさる旨を伝える帝のお言葉を読み上げたのは、悲しいことでした。女御とさえ言わせることがないままだったことが心残りに思われなさるので、せめて存命中より一つ上の位を、と追贈なさったのでした。
しかし、この件についても桐壺様をお憎みになる人々が多くいたのでございます。
心ある御方々は、桐壺様の御容姿が素晴らしかったこと、気立てが穏やかで人当たりが良く、憎みがたいものがあったことなどを今になって思い出しなさるのでした。
みっともない程のご寵愛のせいで冷たくもし、疎んじていらしたものの、しみじみと情愛深かった桐壺様のお人柄を、天皇付きの女房たち同士で恋しがり懐かしんでおりました。
「『なくてぞ人の恋しかりける』(死なれてみると恋しいことよ)とはまさにこのような折かしら」
と思わずにはいられないのでした。[

むなしく日は過ぎていきますが、帝は亡き桐壺様の供養にも逐一弔問の使者をお出しになります。時が経つにつれて日増しにどうしようもなく悲しく思われなさるので、お后様たちと夜を過ごすこともすっかり途絶えなさり、ただ涙に濡れて夜を明かしなさるので、そのお姿を拝見する人までも涙がちな秋なのでした。
「死んだ後まで人をいらいらさせるのね。随分なご寵愛だわ」
と、弘徽殿の女御様は依然として冷酷におっしゃっておりました。
帝はその弘徽殿の女御の第一皇子を見申し上げなさるにつけても、桐壺様のご実家においでになる若宮ばかり恋しく思い出しなさって、親しい女房や御乳母などを派遣なさっては若君の様子をお聞きになります。
台風めいた強い風が吹いて急に肌寒くなった夕暮れ時、いつも以上に若宮を強く思い出しなさって、靫負の命婦という者をお遣わしになりました。風情ある夕月夜に送り出しなさると、帝はそのまま物思いに沈んでいらっしゃいました。このような折は、いつもなら管絃の宴などを催しなさるのですが、亡き桐壺様は格別すぐれた音色に鳴らす琴も、ちょっと申し上げる他愛ない言葉さえも他の方々とは別格で、その様子や顔立ちが脳裏に焼き付いて離れずにいらっしゃるのですが、それでもやはり現実がもたらす暗い心の闇の前ではたいした意味を持たないのでした。
さて、靫負の命婦は桐壺様のご実家に到着して門から邸の中に入るやいなや、その雰囲気に胸を打たれるのでした。桐壺様のお母上は夫を亡くしておりましたが、娘一人を大事にお育てになるために、あれこれ綺麗に手入れをして感じよく生活していらっしゃったのですが、娘を亡くした失意のどん底に深く沈んでいらっしゃるうちに、御庭の草も背高く伸び、強風によってますます荒れてしまった感じがして、月の光だけがはびこっている蔓草も構わずに差し込んできます。
靫負の命婦を寝殿の南面に下ろして迎え入れましたが、桐壺様の母君も胸がつまってなかなかお話しできずにいました。[

「今なお生きながらえておりますことがつらくて仕方ないのですが、畏れ多い上様のお使いの方がこうして荒れた庭に置く露を分け入っておいでくださったことにつけても、みすぼらしさがとてもきまり悪くございます」
といって、亡き桐壺様の母君はこらえきれずにお泣きになりますが、それも無理なからぬことでした。
靫負の命婦は、
「典侍が『参上してみると、ますます心苦しくて、精も根も尽き果てるようでした』と上様にお伝えしていらしたのは聞いていたのですが、こうして参上してみますと分別のつかない私のような者の心にも、本当に堪えがたいものがございます」
と言った後、少し心を落ち着かせて、託された御伝言を申し上げました。
「上様は『しばらくは夢ではないかとばかり思い乱れていたが、だんだんと心が静まるにつけ、深い悲しみはさめることもなく、この堪えがたさはどうしたらよいものかと思っても、それを問いかけるのにふさわしい人さえ近くにいない。だからお忍びで内裏に参上なさってはくれないか。若宮がたいそう気がかりで、湿っぽい中にお過ごしなさるのも心苦しく思われてならないから、早く参上なさい』などと、しっかりとは物をおっしゃることもできず、むせかえっておいでになりながら、気弱な所を見せまいと人目を気になさって、気丈に振る舞おうとなさるご様子の心苦しさに堪えかねて思わず退出してしまったので、最後までお言葉を聞けていなかったかもしれませんが」
といって、帝からのお手紙をお渡ししました。
母君は、
「涙に暮れて物も見えませんが、この畏れ多いお言葉を光として読みましょう」
といってお手紙をご覧になりました。
帝のお手紙には、
「時が経てば少しは気も紛れるかと思い、その時を待ちながら過ごすのに、日に日にとても堪えがたい気持ちが増すのはどうしようもなくつらいことです。幼い若宮のことも、どうしているだろうかと思いを馳せつつ、我が手で一緒に養育しないもどかしさよ。今となっては、この私を亡き桐壺の君の形見と思って、やはり内裏にお越しください」
など、心を込めて書いていらっしゃいました。
宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ
〔宮城野の野辺に夜露がおりる冷たい秋風が吹く音に、まだ小さい萩は大丈夫かと思いやられることです。宮中に吹きすさぶ風が身にしみて、涙が催されるとともに若宮のことが思われてなりません〕
という和歌もあったのですが、涙にくれて最後までご覧になることができないのでした。[

母君は、
「長く生きていることがとてもつらくございまして、『まだ生きているのか』と長寿を誇る松の木に思われはしないか気恥ずかしく思われるほどですので、内裏に出入りいたしますようなことは、まして大変に憚られるのです。畏れ多いお言葉をたびたびいただきながら、私自身は参内を決心することができそうにございません。若宮は、状況が分かっていらっしゃるのでしょうか、早く参内なさりたいとお気持ちがはやりなさるようなので、それもまたもっともなこととして、悲しい気持ちで拝見している次第です、と、内々に私の思っておりますことを上様にお伝えくださいませ。私は娘に死なれた不吉な身でございますので、こうして若宮が傍においでになるのも、縁起の悪さに触れさせはしまいかと恐縮でして」
などとおっしゃいます。当の若宮はお休みになっておいででした。
靫負の命婦は、
「私としましては、若宮をこの目で拝見して、こと細かにそのご様子を上様にお伝え申し上げたいのですが、上様は私の帰りを寝ないでお待ちになっているでしょうから。夜が更けてしまってもいけませんし」
といって帰りを急ぐのでした。
母君は、
「途方に暮れる、堪えがたい心の闇がほんの少しでも晴れるようにお話ししたくございますので、今度は上様の使いとしてではなく個人的にお立ち寄りくださいね。数年来、光栄で喜ばしいお使いとしてお立ち寄りくださっていましたのに、こんな形でお越しいただくことになるとは、本当に残酷な運命ですわ。娘は、生まれた時から思うところがあって、父親である亡き大納言が、死ぬ間際まで、『とにかくこの娘を宮仕えさせるという大望を必ずや成し遂げて差し上げよ。私が死んでも落胆して気弱になってはいけない』と、何度も何度も釘を刺すものですから、しっかりした後見人もいないのに入内させるのは、かえって良からぬ結果を招くことになるのではとも思いましたが、ただもう遺言を守ろうと、その思いばかりで出仕させましたところ、身に余るほどの上様のご愛情が何かと畏れ多いものですから、低い身分のために軽い扱いを受ける恥を忍んで宮仕えをなさっていたようなのですが、人様の深い嫉妬を受け、穏やかならぬ、異常なことが次々とその身に襲いかかりまして、ついにはこんな結果になってしまったものですから、上様の畏れ多いご愛情がかえってつらく思われてなりません。これも道理とは別の所にある、親ならではの心の闇でして」
などと、最後まで言い切れずむせかえってお泣きになる間に夜も更けてしまいました。[

靫負の命婦が言うには、
「上様も同じでございます。『自分の心ながら、無理矢理に、人目に驚かれるほど桐壺の君を愛したのも、前世からの、今となってはつらい結びつきのために「長く続くことはないのだ」と感じ取っていたからかもしれない。絶対に、ほんの少しも人の心を傷つけていることはないだろうと思ってきたが、ただこの方との宿縁のために、多くの后たちからあるまじき恨みを負った挙げ句、こうして先立たれてしまい、心を落ち着けることもできず、ますますみっともなく亡き桐壺の君の面影に執着しきっているのも、いったい前世はどんな私たちだったのか見てみたいものだ』と繰り返しおっしゃってはいつも涙に濡れていらっしゃいます」
と語って尽きることがありません。
そうして泣きながら、
「夜もずいぶんと更けてしまいましたが、今夜のうちに御返事を上様にお伝えしなくては」
と内裏へとお急ぎになるのでした。
月はもう沈みかけ、空は清らかに澄み渡っていて、とても涼しい風が吹き、草むらにひそむ虫の鳴き声は涙を誘うようで、とても離れては行きがたい景色なのでした。
鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
〔鈴虫が声の限りを尽くして鳴いても長い秋の夜はまだ余っているように、私も秋の夜長に涙を流し続けてもまだ悲しみが余ることですよ〕
命婦は名残惜しいようで、お車に完全に乗ってしまうことができずにいました。
いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人
〔ますます盛んに虫が鳴き騒ぐ荒れた庭には夜露が降りていますが、あなたは更に涙の露を置き添えさせるのですね〕
恨み言の一つも申し上げたくなりまして」
と亡き桐壺様の母君は女房を通しておっしゃいます。
風情ある贈り物などをするべき時でもございませんので、ただ桐壺様の御形見にといって、このようなこともあるだろうかとお残しになっていた御装束を一揃えと、御髪上げの調度のようなものを添えて命婦にお渡しなさいました。
若い女房たちは、言うまでもなく悲しいのですが、常に内裏で過ごしてきた習慣からとてももの足りなく、上様のご様子などを思い出し申し上げるので、はやく参内なさるよう母君を促し申し上げるのですが、
「こんな縁起の悪い身が若宮に寄り添って参内するのも非常に外聞が悪いだろうし、といって、自分だけが残るというのもまた、ほんのしばらくでも若宮を拝見しないでいるのはとても気がかりだし」
と思い申し上げなさり、思い切って若宮を参内させ申し上げることができずにいらっしゃいました。[10

内裏に戻った靫負の命婦は、まだお休みになっていらっしゃらなかったわ、としんみりした気持ちで見申し上げました。
帝は、お庭の美しい盛りの草木を御覧になっている様子で、ひっそりと、奥ゆかしい女房だけを四五人ほど傍に控えさせてお話をなさっているのでした。最近いつも帝が御覧になっているのは『長恨歌』の屏風絵で、それは宇多天皇が絵師に描かせ、また伊勢、紀貫之に詠ませなさった歌を添えたものですが、和歌や漢詩も、似たような内容のものばかりを口癖になさっておいででした。
帝がとても念入りに桐壺様のご実家の様子をお尋ねになると、胸を打たれるようなことを静かにご報告するのでした。桐壺様の母君からのお返事を御覧になると、
「たいそう畏れ多いお言葉、私としては身の置き所もございません。しかしこのような仰せごとを頂戴するにつけても途方に暮れ、心が乱れるばかりです。
荒き風ふせぎしかげの枯れしより小萩がうへぞしづ心なき
〔荒々しい風を防いできた垣根が枯れてしまってからというもの、小萩のことが心配で心が落ち着くことがございません―娘が死んでからというもの、若宮の身の上が心配で心が落ち着きません―〕
などとあり、いくぶん乱雑ではありましたが、悲しみの真っ只中なのだからとお目こぼしなさるようでした。
帝は、気落ちしているようには見られまいとしてお気持ちを静めようとなさいますが、まったくこらえることがお出来にならず、桐壺様を初めて御覧になった時からの思い出を掻き集めて様々に思い続けなさり、
「ほんの少し離れているだけでも会いたくて会いたくてどうしようもなくじれったかったのに、よくもまあこうして月日を過ごしていることよ」とご自分でも驚いていらっしゃいました。[11

「亡き大納言の遺言を守って、入内をさせたいという願いをかなえてくれたことに報いるため、桐壺をもっと高い地位に引き立てようと思い続けていたが、それもむなしくなってしまったよ」
とおっしゃって、帝はたいそうしみじみと桐壺様の母君の胸中に思いを馳せなさいます。
「そうは言っても、若宮が成長なされば、恩に報いるしかるべき機会もきっとあろう。それまで長生きすることを心がけ、今は耐えてほしい」
などとおっしゃるのでした。
そして靫負の命婦は、例の、母君が別れ際に持たせた贈り物を御覧に入れました。
「『長恨歌』にあるように、亡き人の魂のありかを尋ね当てたしるしのかんざしならよかったのに」
とお思いになりますが、甲斐のないことでございます。
尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
〔亡き桐壺を訪ねていく幻術使いでもいてくれればいいのに。人づてにでも魂ありかを知れるように〕
絵に描かれた楊貴妃の顔立ちは、どんなに優れた絵師といっても筆には限界がありますので、美しさには不足がございます。楊貴妃は、その顔立ちが宮殿の池に咲く蓮の花に、その眉は柳にも本当に似ていて、中国風の装いは美しかったのでしょうが、桐壺様の親しみやすく愛らしかったご容貌を思い出しなさると、それはそれは、花の色や鳥の鳴き声に例えられるようなものではありません。
朝晩に交わす言葉に、
「天上では比翼の鳥、地上では連理の枝となりましょう」
と口癖のように永遠不滅の愛をお約束なさっていたのに、それがかなわなかった、はかない運命の恨めしさは尽きることがありません。
風の音や、虫の鳴き声につけても、悲しいお気持ちばかりが催されなさるのですが、その頃、弘徽殿の女御様は、長らく帝にお呼ばれして上の御局に参上なさることもなく、風情ある月を愛で、夜が更けるまで管弦の宴をなさっていたようです。
帝は、実に興ざめで不快なことだとお聞きになっているのでした。近ごろの帝のご様子を拝見する殿上人や女房達も、その弘徽殿の音楽をいたたまれない思いで聞いていました。
弘徽殿様はとても自己中心的で気が強いところがおありになる方でして、桐壺様が亡くなったことなど何でもないことだと無視なさるようにふるまっていらっしゃるのでしょう。[12

月も沈んでしまいました。
雲のうへも涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿
〔この雲の上―宮中―からでさえ涙で見えなくなってしまった秋の月が、浅茅の茂る桐壺の実家からではどうして澄んで見えようか。そしてまた若宮はどんな風に暮らしているだろうか〕
若宮の暮らす桐壺様のご実家のことをお思いになりつつ、灯火をともす油がきれてもなお起きていらっしゃいます。すると、宿直を勤める右近の司の者が自分の姓名を名乗り申し上げたので、丑の刻になったようでした。帝は人目をお気になさり、夜の御殿にお入りになっても、なかなか寝付くことがおできにならずにいるのでした。また、朝に起きなさるといっても、「夜が明けるのも知らないで」という古歌を思い出しなさるにつけ、やはり朝の政務はお執りにならずにいるようでした。お食事を召し上がることもなく、朝食も、箸をおつけになるのはほんの体裁程度で、とても食事の気分にならないとお思いになっているものですから、お給仕に伺候している人はみなその悲痛なご様子を拝見して嘆くばかりでした。
帝のお近くにお仕えしている者は男も女も
「とてもつらいことだ」
と声を揃えて嘆いておりました。
「桐壺様とはこうなる運命でいらっしゃったのだろう」
「数々の非難や恨みをも気兼ねなさらずに、桐壺様のこととなると物事の道理もお忘れになっていたものを、今またこうして世の中もお捨てになったかのようになっていくのはどうしたものか」
「まったく困ったことだ」
と、人々はよその国の朝廷まで引き合いに出し、ひそひそと話しては途方に暮れるのでした。[13

それから月日も経ちまして、とうとう若宮が内裏に参上なさいました。以前よりもいっそう、この世のものとは思えないほど美しく成長なさっていたので、かえって、帝はとても不吉な予感をお感じになったりもするのでした。
翌年の春、皇太子を決定なさる時にも、第一皇子ではなくこの若宮を、と帝はお思いになったのですが、さすがに後ろ盾となるべき人もおらず、また世の中も受け入れるはずのないことだったので、かえって若宮のために危ういことだとお気持ちを抑え、顔色にもお出しにならずにいましたので、
「上様はあれほどに若宮のことをお思いになっていたけれど、さすがにものには限度があったことだ」
と世の人も噂をし、また弘徽殿の女御様も安堵なさっているのでした。
一方で祖母北の方は、気の晴らしようもなく落ちこみなさって、
「せめて娘の所に行きたい」
と願いなさった結果でしょうか、とうとうお亡くなりになってしまったので、帝はまたこのことをこの上なく悲しんでいらっしゃいました。
若宮は六歳におなりになる年でしたので、母君の時とは違って物事がお分かりになり、恋い慕ってお泣きになりました。
生前、祖母君は長い間身近に可愛がり申し上げなさってきた若宮をお残しして先立つ悲しみを何度も繰り返しおっしゃっていました。今や、その若宮はずっと内裏でお暮らしなさいます。七歳におなりになるので、帝は読書始めの儀式などをさせなさったところ、世にまたとなく聡明利発でいらっしゃるものですから、何となく恐ろしさまでお感じになる帝でございました。[14

帝は
「今や、どなたもこの若宮をお憎みになることはできまい。色々あるかもしれないが、幼くして母親を亡くしたことへの同情の念だけでも良いので慈しんでほしい」
と言って、弘徽殿などに足をお運びになるお供としてそのまま御簾の中にお入れ申し上げなさいました。
勇壮な武士や、仇敵であっても若宮を見るとつい微笑んでしまうほどの魅惑的なお姿でいらっしゃるので、さすがの弘徽殿様でも遠ざけることなどおできになりませんでした。弘徽殿様には姫宮がお二方いらっしゃるのですが、この若宮と比べるとどうしても見劣りしてしまうのでした。他の女御や更衣の御方々も御簾の奥にお隠れにならず、今時分からこんなにも美しく立派でいらっしゃる若宮を、たいそう興味深く、また気を置いてしまう遊び相手と誰もが思い申し上げていらっしゃいました。
正式な御学問はもちろん優秀で、その他管弦の演奏をしても澄んだ音が空にまで響き渡るようで、その素晴らしさをすべてを言葉にしたら、大げさに長々しく鬱陶しいものとなるに違いないので控えることといたします。
その頃、高麗人がこの国に参上していたのですが、帝はその中に優れた人相占いをする者がいるということをお聞きになって、内裏に異国人をお招きなさるのは宇多天皇が厳しく禁止する掟をお定めになっていたものですから、人目につかないよう厳重に警戒しつつ、この若宮を鴻臚館という訪日外国人の宿泊施設に向かわせなさいました。
後見人めいてお仕えする右大弁の子であるかのようにお連れ申し上げると、占い師はびっくりして何度も首をかしげては不思議がっておりました。
「国王として即位するべき人相をお持ちになる人ですが、そのような方として将来を見てみると国が乱れ憂えるようなことが起こるでしょうか。朝廷の重鎮となって世の中を支える方として見ると、また違ってくるでしょう」
と言うのでした。後見人を演じている右大弁もまた学才に優れた有識者でしたので、そこで言い交わしたことなどはとても興趣があるものだったそうです。
漢詩などを作り交わして、今日明日にも帰国しようという時にめったにないほど素晴らしい人と会えた喜びや、はたまたかえって悲しい別れをすることになってしまったことなどを風情豊かに作ったのですが、若宮もまたしみじみ趣深い詩句をお作りになったので、占い師は絶賛し申し上げて、たいそうな贈り物を若宮に進呈しました。朝廷からも、この占い師にたくさんの褒美をお贈りになりました。[15

高麗人による若宮の人相占いは秘密裏に進められたのですが、それでも自然と噂が広まって、春宮の祖父の右大臣などは、どういうことだろうかとお思いになっていました。
それ以前に、帝はその聡明なお心から日本流の人相占いをお命じになっていて、その結果も今回と同じだったものですから、今までこの若宮を親王にもなさらずにいたのですが、
「人相見というのは実に優れたものだなあ」
とお思いになって、
「この若宮を後見人もなく、位もない親王などにして頼りない境遇になど置くまい。私の治世もたいそう心もとないから、この若宮は臣籍に下して朝廷を補佐させるのが将来的にも頼もしかろう」
とお心に決めなさって、いっそう様々な分野の学問を修得させなさるのでした。
若宮の賢明さは際だっていて、臣下にしておくのはとても惜しまれるのですが、親王とおなりになってしまうと、即位するのではないかと世間に疑われなさるに違いなく、また天竺流の占いである宿曜の道の者に考えさせなさってもまた同じように申し上げるので、やはりこの若宮は源氏として臣籍にお下しすることをお心に決めなさいました。[16

年月が経っても、帝は桐壺様のことをお忘れになる時がありません。気が紛れるだろうか、と相応の人々を呼び寄せなさいますが、
「桐壺に似ていると思える女性などこの世にはいないのだ」
と思うと、すべてが嫌になるばかりでしたが、先帝の四の宮様、というのは、ご容貌がたいそうお美しくいらっしゃるという評判も高く、母親であるお后様がこの上なく大事にお育て申し上げなさっていた方で、帝にお仕えする内侍の典侍は先帝にもお仕えしていた縁から、その四の宮様の所にも親しく参上していたため、まだ四の宮様が小さくていらした時分から見申し上げていて、今さっきもわずかに見申し上げる機会があって、
「これまで三代の帝のもと宮仕えをしてきました中で、亡き桐壺様のご容貌に似ていらっしゃる方をお見かけすることはできずにいましたが、先帝の四の宮様は桐壺様にとてもよく似てご成長なさってございました。それはそれはめったにないほど優れたご容貌でした」
と帝に申し上げたところ、本当だろうか、と帝はご興味をお持ちになって、入内するようにと情熱をこめてお促しなさいました。
母后様は、
「なんと恐ろしいこと。春宮の母である女御の方はとても意地が悪くて、桐壺の更衣があからさまにいじめられた例があるのも不吉なことだし」
と気兼ねなさり、娘の入内を思い切って決心なさることがないまま、お亡くなりになってしまいました。
こうしたわけで、四の宮様は心細い様子でいらっしゃるものですから、帝は
「ただただ私の娘と思ってお迎えしたい」
と、たいそう熱心に申し上げなさいます。四の宮様にお仕えする人々や後ろ盾の方々、兄上であられる兵部卿の親王などは、
「とにかく、こんな風に心細い状態でいらっしゃるよりは、内裏にお住まいになればお心も紛れるでしょう」
などとお思いになって、四の宮様を入内させ申し上げなさるのでした。
この御方は、お住まいになる殿舎に藤壺を賜ったのでした。[17

本当に、藤壺様のお顔立ちやお姿は不思議なほど桐壺様にそっくりでいらっしゃいました。しかも桐壺様と違ってご身分も高く評判も素晴らしくて、誰もさげすみ申し上げなさることなどできるものではございませんでしたので、何も気兼ねすることなく過ごして大変に満ち足りた様子でいらっしゃいました。
思えば、桐壺様に関しては人々がお認め申し上げなかったために、帝のご愛情はかえって増していったのでした。帝のお気持ちが紛れなさるというわけではありませんでしたが、それでも自然と藤壺様にお心は移って、たいそう心が慰められる様子でいらっしゃるのにつけて、何とも言えずしみじみ感じるものがありました。
源氏の君は帝のおそばを離れなさらないので、他のお后様方もですが、帝が足繁くお通いになる藤壺様はまして源氏の君と対面するのを恥ずかしがっているわけにもいきませんでした。
どのお后様にしても、自分が人より劣っているとお思いになっているはずもなく、それぞれに素晴らしいのですが、それなりにお年を召していらっしゃるのに対して、藤壺様はとても若くてかわいらしい感じでございまして、しきりに源氏の君の目から隠れようとなさるのですが、源氏の君の方で自然とそのお姿をちらっと拝見したりもするのでした。
その源氏の君は母親である桐壺様のことはまったく覚えていらっしゃいませんでしたが、
「藤壺様にとても似ていらっしゃったのですよ」
と内侍の典侍が申し上げたので、幼い御心から非常に恋しく思い申し上げて、
「いつも藤壺様の所に参上して一緒にいたいな」
とお思いになっていました。[18

帝にとっても、源氏の君と藤壺様はともにこの上ない愛情をお注ぎになる方々ですので、
「この若君と仲良くしてやってほしい。あなたは不思議なほどこの子の母親だった桐壺に似ている気がするよ。失礼だとお思いにならず、かわいがってやってください。桐壺は顔立ちや目もとなどがあなたにそっくりだったから、あなたと若君は親子にぴったりに見えるのです」
などと申し上げなさるので、源氏の君は幼い心ながら、ちょっとした花や紅葉につけても藤壺様に愛情を示して、この上なく思いをかけ申し上げなさるので、弘徽殿の女御様はまた藤壺様とも関係がぎくしゃくしているものですから、その藤壺様憎さに加えて、元来の源氏の君に対する憎しみもわき起こり、目障りなことだとお思いになっていました。
帝がこの世に並ぶものがないと見申し上げなさり、名高くいらっしゃる藤壺様のご容貌と比べても、源氏の君の美しさといったら例えようもないほどだったので、世の人はこの若宮のことを「光る君」と申し上げるようになっていきました。
藤壺様のお美しさも源氏の光る君と並んで素晴らしく、帝のご寵愛もそれぞれに対して格別なので、世の人は「輝く日の宮」とお呼び申し上げました。[19

帝は、光る君の童姿はそのままにしておきたいと思いになるのですが、十二歳で御元服なさいました。帝はじっとしていられずにあれこれと儀式のお世話なさり、儀式として定まっている以上のことなさいました。先年の、紫宸殿で行われた春宮の御元服の盛大な儀式にも劣らないように執り行いなさって、儀式後のあちらこちらでの饗宴などにおいても、
「内蔵寮、穀倉院などが通り一遍のもてなしを準備して不十分なものになってはいけない」
と、取り立ててのご命令があって、贅を尽くして光る君をもてはやし申し上げます。
清涼殿の東庇に東向きに椅子を据え、その前に、光る君のお席と、冠を据える役の大臣のお席がございます。
申の刻に源氏の光る君が儀式に参上なさいました。少年の髪型であるみずらを結いなさっているお顔立ち、美しさ、そのお姿を変えるのは惜しい気がいたします。
大蔵卿が光る君の御髪を整えてさしあげました。
たいそう美しい御髪を切るのは心苦しく思われて、帝は、
「この様子を桐壺が見ていたら・・・」
と、亡き人を思い出しなさると耐え難いものがありましたが、気を強くお持ちになり、どうにか涙をこらえなさるのでした。
光る君が冠をおかぶりになってご休憩所に退きなさり、お召し物を着替えなさって、清涼殿の東の庭に下り、帝に頭を深く下げて拝礼し申し上げなさる様子に、人々は皆涙を落としなさいました。まして帝は涙を堪えなさることができるはずもございません。藤壺様の入内によって亡き桐壺様への未練が紛れなさっていた時のことを、遡って悲しくお思いになるのでした。
このように年若いうちは、元服して髪を結うと見劣りしないだろうかと帝は心配なさったのですが、驚いたことに美しさが加わり、一段と魅力的でいらっしゃいました。
光る君の冠親である大臣には、正妻の皇女様との間に生まれ育ち、とても大切に育ててきたご令嬢がいまして、春宮から求婚を受けた時には煩わしくお思いになって固辞した大臣でしたが、それというのも光る君に差し上げようというお心づもりでいらっしゃったからなのでございました。帝にもご意向を伺いなさったところ、
「それでは元服の際の世話役もいないようだから、その夜の添い寝にでも」
とお促しになったので、光る君に嫁がせる決心を固めていらっしゃったのです。
光る君が休憩所に御退出なさった後、祝宴が始まり人々がお酒などを召し上がっている時に、源氏の光る君は親王様たちがお並びになる末席に着座なさいました。
大臣はご自分の娘を嫁がせたい旨をほのめかして申し上げなさいましたが、何かと気恥ずかしい年ごろで、はっきりとお返事申し上げなさることができずにいる光る君なのでした。[20

帝からのお召しの言葉を勾当内侍が言付けると、大臣は参上なさいました。帝からの、光る君の冠親をつとめた大臣への褒美の品は、上の命婦が取り次いでお与えになりました。褒美は、白い大袿にお召し物を一揃いと、例の通りでございました。御盃を酌み交わしなさる時に、
いときなき初元結に永き世をちぎる心は結びこめつや
〔幼い光る君の初めての髻を結う時に、そなたの娘と永い契りをかわすようにと願いをしっかり結びこんだか〕
帝のお心遣いに大臣は思わずはっとなさるのでした。
むすびつる心も深きもとゆひに濃き紫の色しあせずは
〔しっかりと結んだ元結いの濃紫色の紐の色さえ褪せない限りは、契りを交わす心も深いはずです〕
と返歌を申し上げて、紫宸殿に続く長い廊下を下り、深々と拝礼なさいました。そうして左馬寮の御馬と蔵人所の鷹を頂戴なさるのでした。階段の下でも、儀式に参加した親王や上達部が連なり、それぞれの身分に応じて褒美を頂戴なさいます。
その日、帝の御前の折櫃の小料理や籠に入れた果物などは、光る君を高麗の人相見のもとにお連れした右大弁が拝命して準備いたしました。お握りや、褒美を入れた唐櫃などは狭苦しく感じるほどに用意され、その数は春宮の元服の儀の時以上で、かえって光る君の元服の儀の方がこの上もなく盛大に執り行われたのでございます。[21

その夜、源氏の光る君は大臣の御邸宅に参上なさいました。婿取りの儀式では、世にも珍しいほど光る君を盛大におもてなし申し上げなさるのでした。大臣は、とても年若くいらっしゃる源氏の君を並々ならずかわいいとお思いになっておりました。
女君は光る君より少し年上で、とても若くいらっしゃる光る君を見て、内心では
「釣り合わなくて気恥ずかしいわ」
と思っていらっしゃったのです。
大臣の娘にたいする愛情は生半可ではなく、その娘の母宮は帝とご兄妹でいらしたので、どこを見ても華やかであるのに加えて、光る君までこうして婿入りしたものですから、春宮の外祖父としてゆくゆくは世の中を治めることになる右大臣の勢力は、問題にならないほどこの大臣に圧倒されることになってしまいました。
さて、大臣は妻たちの間にたくさんのお子様がいらっしゃいました。その中で、この正妻である宮様のお子様には、光る君と結婚なさったご令嬢の他に、とても若くて魅力的な蔵人の少将がいて、右大臣はこの大臣と不仲だったのですが、この少将はお見過ごしになれず、大事になさっている四女の君の婿になさっていました。
大臣が光る君を大事にするのと同じくらい、右大臣は婿である蔵人の少将を大事にしていて、理想的な間柄でございました。
源氏の光る君は帝がいつもそばにお呼び寄せになるので、気軽に大臣邸にお通いになれずにいました。そんな光る君の心中では、ただもう藤壺様を比類ない存在の方と思い申し上げて、
「あのような方と結ばれたい。並ぶものがないほど魅力的でいらっしゃるなあ。大臣家の姫君はとても美しくて、大事に育てられた方だとは思うけれど、しっくりこないよ」
とお感じになっていて、幼心に藤壺様への一途な憧れにかられて、恋煩いに苦しんでいらっしゃるのでした。[22

元服なさってからというもの、以前のように帝は光る君を藤壺の御簾の内にお入れになりませんでした。管弦のあそびの時など、藤壺様が弾く琴に合わせ、心を通わせるように笛を吹く光る君は、幽かに聞こえる藤壺様の御声を心の慰めとして、内裏での生活ばかりをお好みなさるのでした。
五六日内裏にお仕えなさって、大臣邸に二三日赴くなど、訪れが途絶え途絶えでいらっしゃったのですが、今はまだ幼いお年頃なので、大臣はそれを罪なことだとはまったくお思いにならないで、光る君を精一杯お世話なさいました。
大臣邸では光る君夫妻の女房たちについても、並々ならぬ美人を取りそろえて仕えさせなさいます。光る君がお気に召すような御遊びを催し、一生懸命にお世話なさるのでした。
一方、内裏では亡き母君の殿舎であった桐壺を光る君のお部屋とし、桐壺様に付いていた女房たちをそのまま光る君に仕えさせなさるのでした。
また、桐壺様のご実家は、修理職、内匠寮に帝の命がくだり、またとないほど素晴らしく改築なさいます。もともと庭の木立や築山のたたずまいなど風情があったのですが、池を広くしてより立派に造る工事で賑わっていました。
光る君は
「このような所に、理想の女性と一緒に暮らしたいなあ」
と、ため息ばかりついていらっしゃいました。
そうそう、この「光る君」という呼び名ですが、これは高麗の人相見が感激したあまりお付けしたものだと言い伝えられております。[23

 

帚木

 

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